西置賜郡からR348号線にて山を越えて山形盆地へ出始めると程なく右手に小高い山が見えてくる。ここは今を遡ること約400年前に激戦の舞台となった長谷堂城跡である。
この城は山形城の西南約7kmに位置し、比高約85mの独立丘陵に築かれた山城で古くから天然の要害の地であった。築城時期は定かではないが、残された文献によると1514年以前と考えられている。最上領西南の守りとして本沢川から導水して深堀を巡らし、土塁を築く等強固な城砦に整備されていた。

慶長5年(1600)「東北の関ヶ原合戦」といわれた攻防戦があり、会津の上杉景勝の家老直江兼続が総大将として米沢より2万数千の上杉精鋭軍を率いて、山形の最上義光を攻めた折り、最上軍の志村光安がこの城に約5千の将兵と籠城して、半月間上杉軍の猛攻を凌ぎついに城を守りきった。このことから長谷堂城は「難攻不落」として戦史に名を残すことになる。その後、元和8年(1622)最上家改易と同時に廃城となった。
山形市の調査によれば、中世の城郭跡としてこれだけの虎口や曲輪の跡が残されているのは珍しく、学術的・文化価値の高い史跡であることが明らかにされている。私は城の見方の知識は乏しいが、歴史に名を残す史跡ゆえに以前からこの山城には興味があった。そこで今機会を得、400年前に思いを馳せながら探検です。
R348より(西側遠望) 八幡口付近の戦死者供養塔
八幡口登り口 雪の尾根を突進
山頂本丸跡にて 画面中央に山形城(霞城)跡を望む
山頂より…左手前より雲霞のごとく上杉軍は押し寄せた
空堀跡 大手口の石段

当時は土塁が築かれていた 搦手観音坂口(南側より)
さて上杉が最上を攻めた背景や合戦の詳細な経過は次回に譲るとして、上杉軍が山形城を攻めるには背後に位置することになるこの長谷堂城を落とす必要があった。そこで猛攻を加えるがなかなか落とせないうちに、関ヶ原西軍敗北の報が両陣営に届き、上杉景勝からは撤退命令が出され、瞬く間に攻守の立場が入れ替わってさらに激戦が繰り広げられた。この時の上杉軍には前田慶次も参戦しており、この付近で奮戦していたことであろう。また、長谷堂城への最も激しい3回の攻防戦では上杉軍では剣豪上泉泰綱、大津美作守、岩井備中、松本杢之助などの猛将が、最上軍では鳥海勘兵衛、加藤掃部左エ門などがこの付近で戦死している。城に至近の田んぼの中の戦死地には戦死者埋葬の塚や碑が建っている。
主水塚(上泉泰綱戦死地・戦死者埋葬塚跡)
市内側より(東側遠望) 背後は城北側・・・八幡口を望む
東側より遠望…右側(三角の富神山付近)より上杉軍は進軍し撤退した
英雄と名の無き兵卒たちが死闘を繰り広げたこの城も、数百年の時の風に流されて今は静かに春の雪解けを待っている・・・。 (取材日 2008年3月10日)
・・・いや~ついにやっちゃいましたね!パクリ企画
。 本家本元はこちら。
所詮パクリゆえに質は雲泥の差だ 
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